北京~モスクワ 第3/4国際列車

第3/4国際列車-RW19雑記

 このページでは、いくつかのテーマで第3/4列車の興味深い光景を不定期に紹介していきます。
 第六回は、シベリアの代表的な風景について、当時車内でつけていた日記からご案内します。それはどこまでも続く森林の物語。

第六回 「シベリアの風景~どこまでも続く森林の話」

11月17日夜の日記より

何処までも続くシベリアの森

 「昼寝から起きたら19時、ミスッた。食堂車に行きそびれた。列車は丁度ジマに着いたところ。ホームに出ると粉雪が降っている。氷点下であろうがそれ程寒くない。硬臥の中国人客が駅舎に向かって走りだした。中国人の走る所に食べ物有り。自分も彼らを追いかける。売店を見つけた。カップラーメンを買おうとしたら、米ドルは使えないと言われた。ホームに売り子はいない。そう言えば、イルクーツクより西は外貨の取り締まりが厳しいと聞いた。車内に戻り一考する。試しに食堂車へ行ってみようか。食堂車は6両後ろにある。行ってみると「どうぞ」の案内。昼間ピロシキを売りにきたおばさんが出てきた。食べさせてくれるらしい。メニューには数多くの料理が載っているが、「ニェット」「ニェット」(無い)の連発。噂通りの品揃えだ。(中略)
 コンパートメントの灯りを付けていても外が見えないので、灯りを消してみる。外は白銀の世界。空は曇っているのだろうけれど、うっすらと星が見える。満天の星だ。たまに人家が見える。列車が通ったあとは静寂の世界だろう。途中通過したトゥルンという駅の電光掲示では-5℃を示していた。思いのほか温かい。昨日は乗降口のドアが凍っていた(水滴が凍り付いていた)が、今日はそれ程でもない」

11月18日の日記より

朝もやのシベリアの集落

「しかし景色が変わらない。1,000km手前と同じ白樺の林。多分1,000km西に行ってもこの景色は変わらないだろう。貨物列車の積荷は材木が多いけれど、それを裏付けるようにあちこちの駅に貯木場がある。(中略)
 12時03分ボゴトル。定刻通りの到着。ここでほぼ中間点。北京より3,809km、モスクワまで3,813km。立派立派!
 かと言ってシベリアのど真ん中にいることには変わりが無い。相変わらずの白樺の森。他の木は無いのだろうか。陽が差してきたので心持ち気分が明るくなる。洗髪でもしようかしら。
 沿線には集落が点在するが、100年経っても村には昇格しそうに無い。家は基本的に平屋建てで木造である。一体この人達は何を以って収入を得ているのだろう。農業では無いだろう。確かに家に隣接して畑が有る場合もあるけれど、如何せん冬が寒すぎ、夏は短すぎて、農業には適していないように思う。場所によってはいきなり工場が現れたりしてそこで働いていると思えなくもない。やっぱりあとは林業か。鉄道沿いに電線が張られていて、沿線に住む分には電気の恩恵を受けているようだ。イルクーツク辺りはアジア系の顔も多かったけれど、この辺りは完全にスラブ系。昔入植した子孫だと思う。このような厳しい環境に入植したとするのなら、元々住んでいた所が余程厳しかったのか貧しかったのか、さもなきゃ強制的か。どうしてこんなにどんよりした感じなのかようやく判った。大都市を除いては景色に色が無いのだ。(中略)
 18時45分ノヴォシビルスク。-7℃。雪が降っており非常に寒く感じる。(中略)ここで石炭の補充を行う。この列車にとって水と石炭だけは絶対に切らしてはいけない。(中略)
 夕食は方便面(後注:カップラーメン)、搾菜、そして何と!北京駅で購入した燕京ビ-ルを満を持して開けることにする!あらかじめデッキの所に1時間程置いておくことで、外気と入り込んだ雪で冷えたビールになっている。何せ冷蔵庫よりも冷たい空気が渦巻いていますからね、デッキは。こうしてみるとすごく質素だけれど、きっと旅行者の食事としては普通なんだろうな。ビールを付けただけでものすごく豪勢に思えてきた」

11月19日の日記より

晴れると少し明るくなる
晴れると少し明るくなる

「振動で目が覚めた。この辺りは線路状態が悪いのか、ものすごい振動だ。このシベリア鉄道、全般的に保線は良くない。毎日頻繁に重貨物列車が行き来していれば、保線が追いつかないのも仕方が無いのかも。中国鉄路とはえらい違いだ(中略)
こちらの貨物列車は何でも運ぶ。木材、石炭は勿論、車、トラック、トラクター、食料品、戦車etc。今通った貨物列車の両数を数えたら76両編成だった。(中略)
 エカテリンブルグに近づくにつれ晴れてきた。陰気に見えたシベリアの大地も青空の下だとさわやかに見える。森が切れ急に街が出現した。シベリアの街の現れ方はいつもこんな感じである。道路脇に大きな看板が立っているのは、そこそこ大きな街に近づいた証拠だ。エカテリンブルグだ。この街はウラル地方の中心。この街辺りではもう「シベリア」という言葉は使わない。」

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